「ルーツの旅」と岩下家の人々

ドゥシェーン会の「ルーツの旅」の事前学習の一助となることを願い、岩下家の人々と温情舎について寄稿させていただきます。

蒔苗 博道

岩下壮一について

ドゥシェーン会の「ルーツの旅」では、ヨーロッパ留学中に岩下壮一が足跡を残した地をいくつか訪問することになっています。
先ずはその岩下壮一の留学生活とゆかりの地をたどってみたいと思います。

岩下壮一は1919年8月24日に裾野を立ち、京都で一日を過ごした後、26日に神戸港から賀茂丸に乗船してヨーロッパに向けて旅立ちます。
旅立ちの日の日記の内容は次のようになっています。

八月廿四日、起床五時、天気晴。暑し。出発の日というので、父太田氏(高須氏の前姓)と早朝農園を見廻る。富士よし。荷作り、午後河泳ぎ。農園一同に送られて出発。沼津にて急行に乗りかえ、小倉、関戸と一所になる。(1919.8.24)

岩下壮一は10月15日にパリに到着し、そこで留学生活をスタートさせますが、到着して早々に今回の「ルーツの旅」のコースにも入っているサクレ・クール寺院の献堂式に参列することになります。
サクレ・クール寺院は1876年に着工、40年あまりの歳月をかけて竣工し、1919年10月16日に献堂式が行われました。
前日にパリに到着していた岩下壮一は日本の代表としてこの式に参列することになりました。
彼はこの式で、第一次世界大戦で傷ついた兵士の姿を目にすることになります。
キリストの聖なる心に捧げられた大寺院の献堂に立ち会ったという意味でも、彼の人生にさまざまな影響を与えた第一次世界大戦を改めて意識する機会になったという意味でも、この献堂式への参列は大きな意味を持つものでした。

小林珍雄の『岩下神父の生涯』(中央出版社)にはパリ到着当時のことが次のように書かれています。

たとえばパリ到着早々、まず宿に困って、ホテル・ブリストル(日本講話委員会事務所のあったところ)に山本(信次郎)大佐を訪ねる(「キリストに倣ひて」の中の「導かるるままに」参照)。

大佐は留守で、宿は容易にみつからない。
平和会議以来外国人や避暑者で旅客が激増した上に、モンマルトルの聖心大聖堂奉献式の参列者がパリにおしよせた結果であった。
(中略)到着の翌朝電話でモンソーの聖マリア学院にルボン神父を訪ねるようにいわれる。
お訪ねすると奉献式の参列をすすめられ、メトロでモンマルトル(殉教者の丘の意)につき、山本大佐の代りに日本を代表することになる。
この大聖堂は普仏戦争の後でフランスの信徒が戦敗の屈辱を国民的罪悪の懲罰と認め、神前に卑下して悔悛の真情を披瀝し、全国民をキリストの聖心に奉献した証左として、全都を下瞰する城北の一丘たる殉教者の山に地を卜して大聖堂建立の挙を決し、爾来五十年上下の寄進相集って基礎まづおかれ、四壁ついで積まれ、遂に白色の大堂宇は蒼空にそびえ立つに至ったものだが、その日こそは、五十年前の敗戦の屈辱を雪(すす)いだ戦勝感謝となって、これを公然とキリストの聖心に奉献する光栄の日だったのである。
「導かれるままに」には当日の式の模様と感動とを細叙して、式次第の中ことにジャンビエ神父の説教に感嘆している。

ドゥシェーン会の「ルーツの旅」で訪れるローマでも、岩下壮一は不二農園や温情舎と深い関わりを持つ人物と面会しています。
その人物とは、のちに温情舎で英語を教えることになる仲省吾先生です。
昭和20年代に温情舎小・中学校の校長代理を務めた野坂健三先生は、「五年間通った不二聖心女子学院」(『われらが学び舎 温情舎 創立八十周年記念誌』所収)という文章の中で仲省吾先生のことを次のようにお書きになっています。

さてここで、仲省吾先生について少し詳しく述べなければならない。先生はもともと学校の教師ではなかった。
東京銀座の問屋筋花園家の御曹司で実業家として活躍した方で、旧姓『花園』、花園省吾先生である。
ある時、日本の産業代表として献上品持参、ローマ法王に謁見することになった。
しかしカトリックのカの字も知らない経済人。
いきなり法王に謁見となったのであるから、着用の洋服から帽子、履物までどうしたらよいか。
謁見の場での礼儀作法については全く見当が付かず、非常に困った。
その時誰かが、それなら法王庁に勤務の岩下壮一神父という人がおるから紹介しましょう。すべてこの方にお伺いしなさい……ということになった。
こうして法王への献上物等万端整えたのち、ローマに赴いて恐る恐る岩下神父に面会することになった。
こうして親切な岩下神父から、謁見の作法一切の指導をうけ、この大役を見事に果たすことが出来、生涯の思い出となった。それ以来、神父を生涯の恩人と思うようになり、帰国後も長い間文通しあう仲になっていた。
こうして岩下神父を知る事になった仲氏はある時、ローマの神父から長い手紙を頂いた。内容は大体次のようなものだった。
『自分の父(岩下清周)は静岡県裾野に不二農園を経営していたが、実際は私が後継ぎとして、そのあとを見なければならない。しかしこの通り、神父の身であるため現在、全く他人に任せきりになっている。是非そこへ行って経営状態を見てほしい。出来ればそこの支配人のような仕事をしてはいただけないだろうか』……と。
生来几帳面で誠実、慎重派でどちらかと言えば芸術家肌の仲先生、ソロバン勘定の商売向きな人ではないが…この神父の依頼に本当に応えようと、それから不二農園、同時に実業英語のできることで農園付属の温情舎中学校の英語の先生もすることになった。
その後神父は日本に帰国、第二次大戦中、軍の要請により宣撫班(せんぶはん)従軍神父として、北支派遣軍と行動を共にしていたが、昭和十五年現地で病を得て、帰国後帰天された。
仲先生はそのあと不二農園と温情舎が聖心女子学院に経営移管されても、ここの英語教師として残り、東京の聖心会修道院との連絡係をしていた。ここで昭和二十三年温情舎勤務となった野坂と知り合うことになる。(「五年間通った不二聖心女子学院」より)

ローマ訪問の時の経験について、仲省吾先生は生徒たちにも授業等で話をされていたらしく、昭和24年に生徒によって書かれた劇のシナリオ「或る夏の日の午後」(『われらが学び舎 温情舎 創立八十周年記念誌』所収)の中にもその時の様子が描かれています。
仲省吾は、大正期に小川町で「流逸荘」という画廊を経営していました。
黒田清輝や岸田劉生やバーナード・リーチなど著名な芸術家と交流があり、岸田劉生とバーナード・リーチは「流逸荘」で個展を開いています。
岸田劉生の1920年6月2日の日記には次のように書かれています。

今日はリーチの展覧会や、兄の移転の用事等の用にて上京する。(中略)新橋から電車にて神田に到り、文房堂にて画具の用事をすまし、竹見屋にて先日買つた画架の具合がわるいので取りかへてもらふ。それより流逸荘に到ればリーチは留守也。

この流逸荘のあった場所は当時の地図で確認することができます。その場所には今はビルが建っていて吉野家の店舗が入っています。神保町の三省堂から徒歩3分程度のところにあります。

流逸荘は現在の靖国通り沿いに建っていましたが、この道は、夏目漱石が『こころ』の中で描いた、「私」がKを出し抜いたあとに歩いた経路の一部となっています。
夏目漱石の『こころ』を愛読し、神保町に近い場所にあった暁星中学校に通っていた岩下壮一ももしかしたら、『こころ』の感動を思い起こしながら、この道を歩いたことがあったかもしれません。
大正期の美術史に大きな足跡を残した仲省吾は、ローマでの出会いが縁で、岩下壮一の依頼を受け不二農園や学校関連施設の管理等を担当することになります。
『岩下神父の生涯』(小林珍雄)には岩下と仲の関わりについて記した次のような一節があります。

「流逸荘」のあった場所
(千代田区 神田小川町2丁目2)

仲省吾氏は後年岩下師経営の諸事業(農園、学生寮、病院など)に終始一貫、事務長格で輔佐された方であるが(岩下師は筆者に、なぜ仲さんがあんなに私のことを世話してくれるのか私にもよくわからない、と洩していた)、この結びつきの端緒は、一九二五年四月頃のヴァチカン布教博覧会にあるのである。

岩下壮一をして、「なぜ仲さんがあんなに私のことを世話してくれるのか私にもよくわからない」と言わしむるほどの敬愛の念を仲省吾は岩下壮一に抱いていたことがわかります。
仲省吾の大きさを知ればしるほど、その人に敬愛される岩下壮一の大きさが見えてくるのです。もし仲省吾に関心を持たれた方がいらしたら、C・W・ニコルの『バーナード・リーチの日時計』(角川選書)を読んでみてください。
岩下壮一との関わりはもちろんのこと、バーナード・リーチとの交流についてやベタニア修道女会の経営する聖家族ホームという老人ホームで暮らした晩年の様子なども描かれています。
今回、この文章を書くにあたってベタニア修道女会に問い合わせをし、仲省吾に関わる資料の有無を尋ねてみたところ、アルバムに残っていた一枚の写真を送っていただきました。
ベタニア修道女会のシスターにドゥシェーン会の「ルーツの旅」の事前学習に活用させていただきたいとお願いしたところ快諾を得ました。
右の写真がそのアルバムに残っていた写真です。

ローマは、岩下壮一神父と仲省吾先生との出会いが、その後、不二聖心女子学院の歴史に大きな意味をもたらしたことを思い起こすのにふさわしい場所と言えるでしょう。

聖家族ホームでくつろぐ仲省吾先生
1965年8月

岩下壮一は1925年に帰国します。
岩下壮一の人生を改めてたどりなおしてみてわかることは、留学の経験とそれまでに身につけた学識が、その後の岩下壮一の哲学研究や神学研究に対して大きな期待を抱かせたということです。
実際に留学以前から東京大学の哲学科に岩下壮一を迎え、中世のスコラ哲学についての新しい講座を彼のために設けようという話もありました。
しかし岩下壮一は日本の思想界における指導者的な立場につくことはしませんでした。
多くの人の予想に反して、留学から帰って5年後、御殿場にあるハンセン病の療養施設、神山復生病院の院長として赴任するのです。
ハンセン病はライ菌による感染症で、当時、天刑病とも呼ばれて人々から恐れられ、患者は強制的に施設に隔離されて社会から排除されていきました。
「もういいかい骨になってもまあだだよ」という、ハンセン病患者の作った川柳は、ハンセン病患者が死後もなお家族から受け入れられなかったことを示しています。
特効薬ができる以前は、病により身体の動きが不自由になったり、顔や手足などが変形していったりすることをとめることができない症例も多く見られました。
なかには気管に結節ができて呼吸が困難になるような症例もありました。
岩下壮一は、そのような患者の姿を見たり苦しみ喘ぐ声を聞いたりする中で、この現実を前に無力である、自分が学んできた哲学に何の意味があるのかと疑問を抱き、持っていた哲学書を火の中に投げ入れてしまいたくなるような衝動にかられます。
しかし実際には火の中に投げ入れることはしませんでした。
しばらくして彼は、むしろこの苦しみの意味を問い答えを出すためには哲学こそが必要なのだと思い直すのです。
なぜ彼らはこれほどまでに苦しまなければならないのかという正解の容易に出ない問いに真摯に向き合うことを通して、机上の学問だけからでは至りつくことのできなかった境地にまで思索を深めていきます。
患者のことを何より大切に考え、一番したい神学や哲学の勉強をあと回しにしてまで患者のために尽くした岩下壮一は、患者たちから「おやじ」と呼ばれて慕われるようになっていきます。
彼がハンセン病患者のために生涯をささげたダミアン神父の足跡をたずねてハワイのモロカイ島に行ったときには神山復生病院を約40日間留守にしましたが、出発に際して患者たちは次のような言葉を残しています。

神父様、此間の公教要理の時初めて神父様のハワイへ御旅行なさることを伺ひました時、私共は本当にビックリ致しました。二、三日の御旅行でさへお帰りのみまたれますのに、四十何日の御留守!私共はどうして辛抱出来るかと思ひました。
ことに、もしかすると太平洋の波の中で沈没してしまふかもしれないなぞ仰せられた時には、泣いてもたりない気が致しました。私共はお偉いお父様の子供としてふさわしい様に、めめしい心は捨てましょう。
とうとい目的のための御旅行で御座います。私共はいさぎよく御送り申し上げましょう。お留守中はキット御言付けをよく守り、よくお祈りして、おとなしく御無事にお帰へりの日をお待ち致します。どうぞ御安心あそばして御出立下さいませ。お別れのかなしみがあれば又やがてお目にかかれる日がまいります。其日をたのしみに明日から始まる四旬節中私共は小さい犠牲を花として幼きイエズス様にささげておよろこばせ致しませう。(「恩愛の絆―ハワイの思い出」より)

岩下壮一が患者たちのためにした仕事の中で後に温情舎とも関わりを持つ事業があります。
彼は、ハンセン病は遺伝するという誤った認識のもとに差別されることもあった患者の子供ために教育を施すための努力をしました。
岩下神父の妹で聖心会のシスターであった岩下亀代子が残した「兄岩下神父について」という文章には「(ハンセン病が)遺伝でないことを証明するため、裾野の農園に一軒の家を建て、患者から生まれた子供をすぐ引受けて、町の篤志家のおばさんに母親代わりとなって育ててもらい、十何年かを通じて入舎した三十名の子供たちは皆健全に育ち、現在社会人として活躍している。」という一節があります。
当時「寄宿舎」と呼ばれていたこの家には、何人もの子供たちが生活し、そこから温情舎小学校に通っていました。
同級生たちは、彼らがハンセン病の患者の子供であることを知りつつも決して差別することなく学校でともに学びともに遊ぶ生活を続けました。
岩下壮一を心から慕う人は実に多く、さまざまな人が回想記を残していますが、その中に岩下壮一が好きだった話について書き残した人がいます。
それはヘルマンという一人の男の子の話です。ヘルマンは足が不自由で口をきくことができず、それが原因で周囲からいじめを受けます。
しかしそれに屈することなく勉学を続け、やがては周囲から一目おかれるようになり、神父になる道を志します。
その姿を見てヘルマンの母親は喜びましたが、息子の負う障害を不憫に思う気持ちに変わりはありませんでした。
その母親の気持ちを察したヘルマンは口がきけないので母親に次のように紙に書いて渡します。

「私の眼はいつも天主様を見られますし黙ってお仕えできることは一番幸福です。」

この言葉に母親はどれほど救われたことかと思います。この話が好きだということからだけでも、岩下神父のひととなりについて多くを知ることができると感じます。
マタイによる福音書の25章に「わたしの兄弟である、この最も小さい者の一人にしたのは私にしてくれたことである。」という一節がありますが、岩下神父は「最も小さい者」のために生涯をささげた方でした。
昨年来日を果たした教皇フランシスコは、正解のない現代のさまざまな問題に真摯に向き合うように私たちを励まし、それらの問題が弱い立場にある人を苦しめることにつながることにしっかり目を向け、弱い立場にある人々のために行動するように私たちに促しました。
創基100年を迎えようとしている今、正解のない問いに向き合い最も小さい者のために生涯をささげた岩下神父に学ぶことは多いと改めて思います。

岩下清周について

次に岩下清周について考えてみたいと思います。

岩下壮一の留学生活はパリから本格的にスタートしましたが、壮一の父清周も三井物産のパリ支店長としてパリで生活をした経歴を持ちます。
清周は、三井物産の創設者である益田孝と親交がありました。
現在、高校1年生のESDで毎年、三井物産の環境・社会貢献部の方に講演をしていただいていますが、最初にこの講演が実現したきっかけの一つに、岩下清周と益田孝とのつながりがありました。
岩下家墓地の前に灯籠がありますが、その灯籠には寄贈者の一人として益田孝の名前が刻まれています。
三井物産は広大な社有林を有し、「三井物産の森」を生かした活動に今も熱心に取り組んでいます。
岩下清周が三井物産時代に社有林に関心を向けていたかどうかはわかりませんが、裾野に隠棲した頃の岩下清周は植林事業に深い関心を寄せていました。
不二農園での植林事業を始めるにあたっては、あの明治神宮の森などを造ったことで知られる林学博士、本多静六の指導を受けました。
本多静六は「岩下清周先生を偲びて」の中に「(岩下清周は)来客あれば自ら起つて山林を案内しながら山林の効用を説き、森林の濫伐が国土保全の上に及ぼす危害を語りて倦む所を知らなかつた。」と書き残しています。
かつて不二聖心に用務員として勤務なさっていた中家基良さんのお話では、不二農園の森は美林として高い評価を受け、賞を受賞したこともあったということです。
岩下清周は、「俺の植林事業が成功したなら、それから得た収益は教育事業に捧げたい。俺はそれを楽しみとしてゐる。」と語っていたそうです。
『岩下清周伝』には岩下清周の教育への思いについて次のように書かれています。

晩年の君(岩下清周のこと)は、不思議な程敬虔な態度で、教育が国家としても社会としても将又(はたまた)人間としても最も大切なことを説いてゐた。
不二農園に小学校を建てた君は、此の敬虔な心から日夕其効果の挙らんことを祈つてゐた。
『うちの学校には立派な先生が心から児童を愛して愛に基づく教育を施して呉れてゐる』と云うのが恐らく君の一番の誇であったらう。

 君は女学校の創立をも志してゐた。
『女子に信仰を与えて心に落付(おちつき)のある教育を施したい。心に落付があれば、如何なる事に遭つても、正しい婦人として精神的に安慰が求められる。立派な母から立派な子が生れ、且つ育てられる。若(も)し、其の立派な母たるべき婦人に商業的智識才能を授け独立自尊して母としての性能を全うし得らるるやうになるなら、尚更結構だから、理想的な女子商業学校を持ちたい』と云うのが君の志であつた。

 岩下清周の祈りを受け継いで教育活動がなされた、温情舎、聖心温情舎、不二聖心女子学院という学校から、神様に心を向けることの大切さを知っている落ち着きある思慮深い卒業生が数多く育ち、さまざまなかたちで社会に貢献してきました。
そしてこの度、創基100年の年に「ルーツの旅」という企画を卒業生の力で実現させました。
「ルーツの旅」の成功を祈るとともに、これからも岩下家の人々の思いがドゥシェーン会会員の皆様の中に生き続けていくことを願っています。

参考資料・推薦図書

『われらが学び舎 温情舎 創立八十周年記念誌』
『岩下神父の生涯』  小林 珍雄/中央出版社
『岩下清周伝』  故岩下清周君伝記編纂会
『闇をてらす足おと 岩下壮一と神山復生病院物語』 重兼 芳子/春秋社
『人間の分際』  小坂井 澄/聖母文庫
『信仰の遺産』 岩下壮一/岩波文庫
『カトリックの信仰』  岩下 壮一/ちくま学芸文庫
『明治の人物誌』 星 新一/新潮文庫
『軍服の修道士 山本信次郎』 皿木 喜久/産経新聞出版
『司祭平服と癩菌』 輪倉 一広/吉田書店
『中学生ふるさと人物研究』 静岡新聞社
『岸田劉生全集 第五巻』 岸田 劉生/岩波書店
『岸田劉生全集 第六巻』 岸田 劉生/岩波書店
「流逸荘と仲省吾 大正時代の初期画廊をめぐって」 横須賀 雪枝/大正イマジュリィ学会